義父のお見舞いで病院へ。
都内にある、ホテルのようにきれいな病院の16階。
眺望、最高。
この高層階から下界の喧騒を眺めるのが好きです。
地上に渦巻いている東京のドロドロが、
うそのように思える場所。
ラウンジのテレビで、
隅田川花火大会の中継。
ひょっとして、
ホテル、じゃない、病院のベッドから、
隅田川の花火が見えるんじゃないか、
ってみんなで騒ぎましたが、
あんまり見えなかったので、
テレビで楽しみました。
体があるから、隅田川花火大会も見られる。
っていうその一方で、
死ぬってことも人間の道理であって、
それはそれとして受け入れるのみだ。
家族としては、なんとしても長生きしてほしい。
でも長生き至上主義には、断固反対。
この、うらはらな気持ち。
眠剤がぶ飲みしたんだけど生還しちゃって、
などと笑って昨日話していた知人にも、
僕は、
ふうん、生きててよかったね、
って言って笑いました。
もしそれで死んでたら、
泣くでしょうなあ、それは。
でもあまり、どこでどう終わるか、
ってことではない気がしてきたのです。
いつどこで死ぬとかっていう
実存的な意識ではなく、
自分の今日のこの日の過ごし方が、
自分の人生そのものであり、
それが幸せなんだよな、
って気づいた時から、
なんだか自分の演奏の密度も、
ぐっと上がった気がします。
王貞治監督の名言、
「この一球は、二度とない」
のおかげかもしれないです。
この前の結婚式での、
義父の演奏には、そういうものを感じました。
一球見て、次の球打つ、ではなく、
いつどこでどう死のうが生きようが生まれ変わろうが、
入院していようが、留置所にいようが、
今日のこの一球は二度とない、ですね。
人生は一球見たら、もうそれでおしまいなんですわ。