最近夢中で読んでる記事があります↓。
http://www.1101.com/telecom/17.html
気になる人は第一回に戻って頭から読んでみてください。
http://www.1101.com/telecom/
ちょっと抜粋。
例えば、ドラマを観ていて、
何か違う気がするなあ?と思う時には、
その作家の人生観にフィットしなかったんだけど、
でも『違うなあ』とは思いながらも、
作家が本気で問いかけた場合には、
『俺はそうじゃないけど、その幸せはありだなあ』
と、何となく納得できたりするんですよね。
その逆で、作家が自分の幸せ観に
まったく触らないところで、
『どうせみんなはこういうのが嬉しいんだろ?
どうせこういうのを面白いと思っているんだろ?』
というような、相手に合わせようとしたた表現には、
みんな受け手として、露骨に嫌な感じがするでしょ。
例えば、自分が成功しているという幸せ観しかないと、
大勢の人に賛成してもらうのは、難しいでしょうし。
でも、そういうものではなくて、
『自分が本当に問いかけた幸せ観が
受け入れられなかったら、嫌だなあ』
と、怖さがあるんだけど出したものなのだとしたら、
それは、たとえ共感されなくても、
『あれはあれでありだよなあ』と思われるはずで、
やっぱり、すごいなあと感じさせる作品には、
そういう幸せ観があるものだと、ぼくは感じています。
立候補しない人には、票が入らないでしょう?
口説かれるのではなく口説く立場になったとたんに、
選挙の立候補者のようにならないといけないわけだし、
時には、自分にも整理のつかない価値観を表して、
通りすがりの人を考えさせなければいけなくなる。
ドラマを観て『これ、違うんじゃない?』と
すごく突っこむ受け手でいるのはすごく簡単だけど、
作り手はほんとにたいへんなんです。
そういう意味で、
バカボンのパパ「これでいいのだ」という言葉を
ぼくは最近ガッツリ理解した。
モテる服でもなく、
ダサいと言われない服でもなく、
オシャレと言われたい服でもなく、
人より一歩先をいく服でもなく、
自分が幸せになれる服を着て
街に出て、「それでいいのだ」と
胸を張ればいいわけだ。