先日聞きに行った八代亜紀のBluenote東京でのライブについて、こんな文章を書きました。
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僕ら大衆は、振り返る暇もなく、忙しい日常を、せっせと生きている。次々と押し寄せる出来事になんとか対処して、人と仲良くする努力をしたり、気を使ったり、怒りをぶつけたり、謝ったりと、出来事を出来事として、処理していくので精一杯だ。人との別れと悲しみ、出会いの喜び、愛することの尊さ、そんな感情は、ゆっくり大切に味わうことなく、ポイと捨てられたり、野ざらしになったまま、放置してしまっている。押し寄せる日常が、大切なはずのひそかな感情を次々と上書きしていく。
八代亜紀の歌は、僕ら大衆が放置して、とはいえ決して消え去ることなく心の片隅に残ったまま山積みになっている、そんな眠ったままの感情に、そっと声をかけて、目覚めさせ、起こしてくれる。歌を聞いていると、直接自分の話を聞いてもらったわけではないのに、誰にも語ることのなかった話を聞いてもらったような、そんな気になっていることに気づく。
話を聞いてもらうというと、先輩や先生など、自分より賢い人に、悲しいな、とか、寂しいな、とか、もっと複雑な感情を聞いてもらい、もっとこう考えたらいいよと諭してもらったり、答えに導いてもらうような箴言を授かりたい気になる。
しかし八代亜紀の歌は、教訓を授ける歌ではない。なにかに対処したり、なにかを成し遂げたりすることではなく、感情と正直に向き合い、ゆっくり味わうこと。そのことこそが、生きるということだったのだ、と気づかせてくれる。その歌は、感情を味わえよ、こう生きるべし、と大上段から言葉で指摘するような説明的な方法をとらない。僕らと同じ地平で、一緒に悲しみ、孤独を感じ、喜んだり、泣いたりして、共に味わってくれるだけである。
それはエンターテイメントのように、耐え難い日常を忘れさせてくれるものでもない。その歌は、感情をエンターテイメントで上書きするのではなく、感情にそっと声をかけてくれるのである。この意味で、八代亜紀の歌はブルース、あるいはフォークと呼ぶにふさわしい。神にうちあけるように、正直に悲しさや寂しさといった心をあらわす言葉がそこにあり、だからこそ、それを聞く僕ら大衆の正直な心も呼び覚ますのだ。大衆よ、心に正直に生きよ、と諭す言葉ではない。
この日、曲間のトークは実にさりげなく自然体に見えたが、間(ま)や立ち振舞いの全てが感覚的に洗練された名人芸であった。多様なリズム、メロディを難なく歌いこなし、その声は唯一無二のトーンを持つ。曲目は誰の期待にも1曲は必ず応えているであろうバランスの良さ。何かひとつが突出しているのではなく、文楽や落語の名人のように全方位が充実している。一人の歌の名人の姿があった。