無難なボールペンを選ばずに。

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点
って本に書いてあったこと。

実験なんですが、
日本人に、色んなデザインのボールペンから
自分が好きなデザインのボールペンを選ばせる。

無難なデザインのボールペンがいくつかあって、
その中に、ちょっと変わった、
カッコイイデザインのボールペンが一本混ざってる。

そうすると、多くの人は、
無難なデザインのボールペンを選ぶ。
聞くと、みんなこれを選ぶかなと思って、という。

で、ホントのホントは、どれが好きなの?
って聞くと、
多くの人は、
ちょっと変わったデザインのカッコイイボールペンを選ぶ。
自分は個人的に、これが好きなんだけど、と。

10人に1人くらいの割合で
いわゆる「ちょっと変わった人」がいて、
いやいやかっこいいデザインのボールペンでしょ、
と迷わず選ぶ。

つまり本当は誰も、
無難な、当たり障りの無いものを
欲しいって思ってないんだけど、
みんなはきっとこう、という幻想とともに、
望まない選択をし続ける、と。

大まかに言うとこんなことが書いてあって、
面白がって読んでました。
正確な実験内容はどうぞお読みいただき。

洋服選ぶときも、
政治家選ぶときも、
CD選ぶときも、
この心理が働くんかな、と。

ボールペンを作る側は、
作り手の僕が欲しい、作りたいもの、というより、
実は誰も欲しくないんだけど、
みんなはそれを欲するだろう、
という世間の「思い込み」に付き合うことになる。
共同幻想を相手にする商売。

ただ僕のような、
別にCDを100万枚も売る必要がない音楽屋は、
自分の欲求に正直な、
10人に1人を相手に商売していても
それはそれで成り立つんじゃないかな。

正直にモノを作って、
素直にやっていけば、
それでいいのかなと思います。

しかしそれが政治家とか首相を決めるときは、
国民全員が関わることだけに、
そうは行かない。

首相が小粒、
なんて言っても、
それは国民が
無難なボールペンを選び続けた結果では?

いやオレは自分が好きな人に入れたよ、
というが、
じゃあ今自分が着てる服は、
無難な色、デザインじゃないかどうか。

この無難マインドがあるから、
日本人は西洋的な意味での民主主義ってムリなんじゃないか、
と僕自身は思い始めてます。

実験によると、西洋人は多くが日本人と反対に
カッコイイボールペンの方を選ぶそうで、
そういう人達なら、
民主主義でもアリかもしれない。

八百屋も主婦も演奏家も、
みんなが自分の政治的意見を持って、
一人ひとりの意思で政治を動かす、
というのが民主主義だとしたら、
今はほとんどそれは機能してない。

twitterとかブログで政治や原発の「論」が
八百屋や主婦や演奏家からほとんど出てこない現状は、
僕は正直、つまんないな〜って思ってます。

そういう国民をかかえて、
これから民主主義が、
どう崩壊、変容していくのか。

無難を選び続ける国民にたいして、
それに合わせて無難を演じつつ、
小出しに「論」のネタを提示する。
内田樹さんや上杉隆さんのような
そういう硬軟を使い分けた語り口、
今、共同幻想を相手にするとしたら、
それしかないのかな、
なんて思っています。

僕自身は
本当はカッコイイボールペンが欲しい、
という気持ちと正面から向き合って、
京大の小出さんみたいに
「使い分けない」でモノを言いたいな、って思います。
それには、干されたり、逆風にさらされる覚悟が要るね。

自分の中途半端さ、
物言いのあいまいさ、
そういうことに最近気づいてきて、
そこはもっとしっかりしなきゃ、
って思う今日であります。