育成システムではなく、陽を当てるシステム作りを。

なでしこ優勝に関して、
乙武洋匡さんがおもしろい文章を書かれてます。

http://otozone.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-d7ff.html

選手を育てる、ってことをせずに、
感動だけ欲しい。
そういうみんなの姿勢に、
ちょっと待てよ、と。

僕も全くそこは同意見で、
前々から音楽について同じことを思っていたが、
いい歌を歌う歌手って、
雑草のようにほっといても、
実力さえあればどんどん開花するって思われがちだけど、
そうじゃないと思う。
どんな才能も、日が当たらなければ枯れてしまう。

それなのに人は、
育てることをせず、
花が咲いたところだけを見たい。

今まさに、レコード会社が瀕死の状態で、
音楽を作る、売るシステムが
ほぼ崩壊しかかってるわけだけど、
こういうときにも、
才能としては、
磨けば山口百恵やちあきなおみくらいのすごい歌手が、
きっとどこかにひっそりと暮らしている。

だからそういう人が出て来やすいように、
質の高い制作スタイル、
販売網、
興行網、
そういうものをしっかりシステムとして整えて、
みんなが花を見て感動できるように、
芽に陽を当てましょう、
ということです。

育てるシステム、というと、
選手の育成システムのことと混同しがちだけど、
そうじゃなく、
ここでいうシステムとは、
選手が輝ける場のしくみを作る=光を当てるということ。

フランスは芸術家に補助金が出るとか、
ドイツは子供の頃からサッカーの英才教育をやるとか、
そういう育成システムって、
今ひとつユニークな才能が育たないところがある。
肥料をたっぷりあげすぎるような感覚。

かたや不遇な日常によって磨き抜かれた人というのは、
育成システムによってばっちり育てられた人にはない「味」がある。

ブラジルのような、
街角サッカーから這い上がって、
生活の為にサッカーをやって家族を貧困から救う、
というぎりぎりの人間の輝きには、
やはりプレイそのものに、
見るべき「味」が宿る。
そうなれたのは、残酷だがいわば無肥料だったからだと思う。

とはいえブラジルも、
トップ選手が食えない、
なんてことはないわけです。
ラテン諸国によくある、
育成しすぎずに、
天才を見つけてはぐくむ土壌と、陽を当てるシステムはしっかりある。
ここでいうシステムとは、
そういう陽を当てる「場」のことだと思う。

なでしこがバイト生活を跳ね返して
W杯優勝をとったのは、
スターシステムなき個々人の努力のたまもの。
いわば日陰で育ったのに、日なたで育った花より大きい花が咲いたのだ。

それが美談として、
感動を何倍にもふくらませたことはそれでいいが、
乙武さんが言うように、
選手には、経験する必要もないくらいの、
かなりの犠牲と苦難があったと思う。
それを笑顔で乗り越えてきた、
そこが奇跡的なんだと思う。

でもこういう例外をありがたがるだけでなく、
個人でどうにかこうにかサッカーをやってきた人に、
サッカーを続けやすくする、
そういう陽を当てるシステム作りをしなきゃいけない。
文化を豊かにするためにね。
歌もまたしかり。
サッカーはまだW杯で陽が当たるからいいほうだよ。
紅白歌合戦?違うよなあ。

そんなふうに思いました。