ゲーテのことばで「自分が何もなす余地のない時事問題には口を出すな」というようなことがある。これはきっと、関係ないことは触らなくて良い、という”我関せず”の話ではなくて、キャッチャーがライトまで守るな、ライトフライはライトに任せろ、おのれの守備範囲を知るべし、という話かと思う。
その意味で、僕が一番口に出せない話題は「子ども問題」、いじめや自殺の話だろうかと思う。子どもも居ないし、自分が子どもでもない。普段暮らしてて、子ども問題に対しては話題にしたこともない。このことを、守備範囲じゃない、といえばきれいですが、でも実のところ「関係ないもん、俺。」に過ぎなかったのではないか、と。
というのも、文部大臣に対する子どもからの「自殺予告の手紙」が、強烈な印象だったんです。個別の”農民一揆”的であり、”自爆テロ”的。いつの時代にも、話題にもされない被差別民というのが存在してきたけれど、弱い立場の人間による最後の手段がこういうやり方で、現代はそれが特定の被差別民ではなく”子ども”だったんじゃなかろうか、と思える。国による”いじめ自殺はここ数年ゼロ”という調査結果は、農民一揆はゼロです、農民に不満はありません、という嘘の報告だろう。こういう手紙が悪ふざけであって欲しいな、と思う反面、深夜テレビでやってる”夜回り先生”の話とか目にすると、そう願ってもいられない気になる。
自分が何かを食べてこんなに美味しかったとか、自分がこんなに楽しい思いをしたとか、自分のトホホ話を書いてコメントでなぐさめられたいとか、ウェブログにそんなことしか書けない大人との温度差は大きい。僕も含め多くの大人は自分のことばっかり考えてるなあ。自分ってそんなにかわいいのかな?自分とその周辺のこと以外は全部”何もなす余地のない時事問題”だから”口を出すな”になっちゃってる。そんなことを思いました。
ところで
矢野顕子 – 春咲小紅 (ザ・ベストテン)
演奏よりも、ミュージシャン26歳で2児の母、ということに反応してしまう。良いとか悪いとかではなく、2006年現時点で、26歳で2児の母というミュージシャンがどれほど居るのだろう。自分の子どもがいれば、少しは世の子どものこと考えるようになるのかな、と思いました。
おフランスですか〜、いいなあ。
そうですね、続きは飲みながら・・・笑。
何故かフランスに来てまでにいみ日記を読み、かつコメントできる「時事事情」を思いつつ…
自分のぶち当たったことのない問題には、やっぱりなんとも言い難いなぁということが多いですが、「こども問題」は当事者だったから、ずっと考えてるネタの1つですなぁ。教育現場がどうとか、家族がどうとか、っていう末端のことを見ていてもあんまり意味は無いと私は思ってます。結局、歴史が背負ってきた社会状況全てが子供に影響しているわけで、大人が変わらなきゃ子供が変わるはずない。
「我関せず」も、いい場合と悪い場合の両方があると思うのです。「イイ我関せず」を追求するのも一つの道かも。
続きはまた飲みながら…?w
yucotさん、アツい一面が見られたような気がしました、素敵です。
ああ、確かに「死んでやる!」よりもたとえば「一揆起こしてやる!」のが理解できるかもです。
その一方、最近僕の"今どきの子ども"観が変わったのは、この本読んでからです。本当にゴミみたいに自殺するしか選択肢がない子どもが少なからずいるんだ、って知ったんです。要チェク。手紙の子がそういう子たちなのかどうかは、今後の情報を待ちましょう。
続きはもんじゃでも食べながら・・・。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4921132542/sr=8-6/qid=1163338782/ref=sr_1_6/503-4181730-1775163?ie=UTF8&s=books
ひつぢさんもアツいですね〜、いいですね〜。
"例え十分に体系化されてないとしても、貴重だ"に共感します。そのことを上手く説明した以下の記事を読んでみて下さい。
http://nb.nikkeibp.co.jp/free/PROJECT/20041222/107069/1/index.shtml
"俺はどんなにかっこいいか、100回口で説明しても、女は口説かれてくれない"という部分が僕の考えでもあります。
続きは"ぶたほ"でも食べながら・・・。
路地裏Cafe店主あるく人さんも実はアツい人だったのですね、いいですね。
たまにこうして時事ネタを日記に書くたびに、実は少し後悔してるんですよ。僕の仕事ってそうすることではないなと思っています。世の中に問題意識を同じくらい持っていたとしても、"ゴー○ニズム宣言"みたいな漫画を書くより"ものけ姫"作りたいよな、と思うんです。ジャーナリスト的でなくて、絵とか物語で表現するほうが素敵だなって思うんですよ。
続きはライブにて・・・。
読んでいて耳が痛くなる内容のブログでした。
今日一日、自分の普段の行いの振り返りをしていました。
確かに時事問題を話題にするのは意識して避けていますね。
何もなす余地がないというあきらめもありますし、メディアの報道は、あまりにネガティブに偏っているということもあります。。。
そんな中で何ができるか?
今回のにいみさんのブログにもコメントが寄せられているように、それぞれの人が振り返り・考えることは、ささやかだけれど、重要な意味があるのではないでしょうか?
少しでも気にかけるようになれれば。
少なくともぼくは、問題提起をしてくださったにいみさんに感謝しています。
自分がかわいいだけでなく、外に向かって開いていければと。。。
考えがまとまらないうちに書き出していますが・・・
ゲーテがどんな意味で言ったか知りませんが、自分の不満のはけ口に時事ネタを使うことは古今東西どこ見ても褒められたことではありません。
例え言説だけを以てしても、その事柄に「関わろう」とするなら、それは何も成してないのではなく、言説で以て何かを成そうとしているのではないでしょうか。
「現場」のことに関わっていなければ何も言えないということはないでしょう。只、肌で実感した経験から来る考えは、それが例え十分に体系化されてないとしても、貴重だと思います。同時に、論理として再構築されていなければ、それが主観に基づくことであることも忘れてはならないと思います。
人のブログで長々と申し訳ないデス。
ヘビーな内容のブログですが、素通りもできないのでコメントを書きたいと思い、書きました。長いです!長くてスミマセン。。。
確かに自殺予告の手紙、しかも2通くらい届いているのですよね。ニュースで報道された時には、なんだか虚しさ、怒りみたいな感覚が私の中にはおこりましたよ。
なんだか、「死」を最終手段に使う!という発想が今時の10代の子達に普通にあるということが、まず虚しいです。これはきっと日本に於ける報道社会の副作用なんでしょうね。
私にとっても子供問題は普段は通り過ぎていく、自分とは関係のない出来事です。抱えていない問題に関しては、なかなか考慮しがたいことですね。でも、なんだか、その今起こっている「死んでやる!」的なブームについては、かつて子供だった大人としては、単なる子供問題ではなく、考えることが出来る!(ような気がする)。
まだまだ書きたいのですが、コメントの域を超えたものになってしまいそうなんで、この辺で・・・(笑)
私、願わくば、その「死をもってして」と考えているような10代の子たちが、ブログやら掲示板やらで、自分の些末な出来事に反応してくれるような、ちっぽけな社会でもいいから、「死」じゃない方向で生きる場所を見いだしてくれる方がずーーーーっっといいなぁーと考えていますよ。
岩井俊二の「リリィ・シュシュについて」という
映画、見ました?いじめが題材のけっこう深刻な映画なんですが、自分の10代とかを思い出しながら見ました。(特に大きなイジメ問題にぶちあたったこともナイのですが、10代の心の動きとか、経験値の浅さとかを思い出すというか、そんな映画でした。)